死は生を包括する

2001年11月11日
「午前0時35分に死によった」

彼女の旦那さんから一報が入ったのが夜中。
そう、以前お見舞いに伺った人が亡くなった。
取りあえず、喪服ではない黒い服を着てすぐに家を出る。

遺体を安置している斎場で対面させていただく。
…美しい。私は亡くなった方の御顔がこんなにきれいだとは思わなかった。
元々、美人なひとだったのではありますが。

しかし私が美しいと思ったのは「醜美」を越えた神々しい表情だったと思う。
湯灌(遺体を洗い清めること)にも立ち会い、御顔に触る事も出来たのだが、彼女は微笑んでいた。意識が無くなるまで苦しんだと旦那さんから伺っていたのに。

…そんな事を微塵も感じさせないような微笑だった。

だが体を洗う段になってチラリと見えた体に、私は愕然となる。
全身にわたる手術の跡。
元々小柄な人だったのだが、まるで体を切り刻んだかのようだった。
どんなにか痛かっただろう、苦しかっただろう…。

それでも担当医は最期まで開腹手術をしたいと言ったそうである。
既に意識の無くなった彼女を前に。
これ以上、彼女の何を手術すると言うのだろう?
しかも死亡後に「解剖させてくれ」と言ってきたらしい。…どうなんだか。

私をはじめ、皆彼女がもうこれ以上苦しまないで死ぬ事を望んでいたというのに。
一日生き延びさせるより、一日でも早く苦痛から救ってあげたかった。
どうして安楽死はダメなの?
点滴や人工呼吸器に繋がれ、体のあちこちに穴を開けられ、ペースメーカーを埋め込まれて生きてるなんて言えるの?

もっと心残りなのは一日でも退院させてあげたかった。
愛犬に会わせてあげたかった。
…犬の写真を遺体の胸元に置いて棺に一緒に納めた。
余談だが彼女が亡くなる日、犬は旦那に纏わりついて離れなかったそうである。

人間の死に顔が美しいのは何故だろう?
きっと生の喧騒から抜け出て、一段高い所へ登ったからに違いない。

私は泣いている。
彼女が死んだという事実よりも、もうこの世のどこを探しても、私が生きてる限り彼女に二度と会えないという事に対して泣いているのだと思う。

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