足りないものを知る

2002年1月14日
旅先で雪を見た。
北国の方は「は?」と思うだろうが、私の住む地方では雪が積もっているのを見るのはとても珍しい。

小学生の頃、3cm雪が積もって休校になった記憶があるほどだ。
柄にも無く雪を足でつついて遊んでしまい、通りがかりの人に不審な目で見られてしまった。

そして帰りの新幹線の中で車窓を見ていたら、信じられないぐらい広い田が目の前にあった。
まさか「からくりビデオレター」の舞台が、実際にこの目で見られるとは思わなかった(笑)

広い、広い、広い。とにかく広いのだ。
こんな田の区切り方をしたら私の地方では人間が住む所が無くなってしまう

よく見たら田の真ん中に誰かが立っていた。
…小さい。田の広さに比べたらあまりにも小さく見える。
私はそれを見ながら、もし自分がそこに立っていたら…と想像してみた。

すると、フッと気が軽くなる気がしたのだ。
見渡す限りの広い場所。何にも束縛されない自分。
想像だけでこんなに気が、体が軽くなるなんて思わなかった。

毎日毎日、ビルの間をぬって過ごし、周りを見れば人や車ばかり。
気詰まり。
正直、人口の密集やコンクリートの圧迫感がこんなに人間を苦しめるものとは知らなかった。

足りないもの。自分を解放するところ。
服を脱ぐとホッとするように、私は自分をホッとさせていただろうか。
雪にはしゃいで遊んだのも、子どもに帰って無心になっていたからだろう。

誰もが疲れたと言いながら気がつかない?
気がつきながらも身動きが取れない、利便性を手放せない?

このままでは人間は己の精神の許容量を越えてしまうだろう。
そして、その許容量を越えた部分を「狂気」と呼ぶのかもしれない。

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